第八回 「開かれしアラブの扉」 (レバノン編)

Lebanon


レバノン旅の期間:1998年4月25日~5月3日 8日間

訪問地:ベイルート、シューフ、サイダ、スール、アンジャル、

     バールベック、トリポリ、ブシャーレ、ジュニエ、ビブロス

 

一日目:ベイルート

二日目:ベイルート

三日目:シューフ、サイダ、スール

四日目:アンジャル、バールベック

五日目:トリポリ

六日目:トリポリ

七日目:ブシャーレ

八日目:ジュニエ、ビブロス




一日目:ベイルート

その日、九竜は朝からザアザア降りだった。

 「君が出発するのを香港が寂しがってるんだよ。」

間も無く閉鎖されるという啓徳(カイタック)空港に向かうバスの中、朝早くから見送りに駆けつけてくれたカオ(高)君は言った。

 彼とは四年ぶりの再会だった。94年にシンガポールで知り合い、行動を共にした旅仲間であるカオ君、そして今回初めて会った彼の仲間達との楽しい香港での一日はあっと言う間であったが、中東という未踏の地にこれから旅立つ僕にとっては正に最高の前夜祭だったと思う。しかしトランジットのために香港で一泊し、更にあと一回飛行機を乗り継ぐなんて、中東とはなんて遠いのだろう。

 

 カオ君差し入れの叉焼包(チャーシャオバオ・・・チャーシューの肉まん)をほおばりながらエミレーツ航空のチェックインカウンターに並ぶ。出国スタンプの表示がこれまでの「HONGKONG」から「香港」に変わった以外、別段変化を感じることも無く中国返還後十ヶ月目の香港を後にし、僕はいよいよアラブに向けて飛んだ。

 

 子供の頃よりイスラム世界のエキゾチックな雰囲気、そして間接的ながらも日本文化にまで影響を及ぼしたその独自性に魅せられていた。初めて訪ねる外国として選んだのがソ連邦のイスラム圏、中央アジアであったように、僕は元々イスラム世界からアジアにはまっていったのだ。そしていつしかその関心はインド、東南アジアにも広がり、中国留学という機会をもって儒教文化圏へとたどり着いたのだ。これまでにイスラムの国を訪ねたことは何度かあったが、残念ながら本家本元であるアラブ諸国を訪れる機会は一度も無かった。距離的に遠くて渡航費用も安くなく、かつ見所となる世界遺産が多いので時間もある程度必要だったためである。中国留学から戻ってはや二年、勤めるようになってからは休みが思うように取れなくなったが、今度こそという思い通じてか今回いいチャンスが巡ってきた。中国語を話せることから職場でも何かと「中国担当」というレッテルを貼られがちなのだが、この機会に僕をアジア好きにさせた本来の地域に羽根をのばして初心に戻ってみようじゃないか、そう思ったのだった。

 

 エキゾチックな香水の香り漂う機内。UAE(アラブ首長国連邦)の航空機ではあるが宗教的な理由からか、スチュワーデスは皆金髪の欧米人だった。前後左右に座るマッチョで毛深い男達。これがアラブか・・・。備え付けのヘッドホンから鳴り響く中国、インド、マレー、アラブ等アジア各地のヒット曲。早くもコスモポリタンの玉手箱に放り出された気分。曲に合わせているつもりか、後ろからは音痴な歌声。前の席からは150度の容赦無いリクライニング。そして禁煙席から堂々と立ち込める煙・・・。ああ、これがアラブなのか・・・。アジアに来た時、人々のやや荒っぽく大まかな行動を目の当たりにすると、日本の常識から解放されたようなある意味新鮮な気持ちを覚えるが、マナーの悪さもここまで徹底化すればまるで異国の芸術作品を見ているような気にさえさせてしまう。慣れている外国人等はきっとウンザリなのだろうが。

 

 眠っては起き、起きては眠り、を何度か繰り返すこと十数時間。飛行機はドバイ空港に到着。ここは今回の目的地ではなくあくまでトランジットに過ぎないのだが、この近代的な空港、一言で言えば正に人種の博物館。映画に登場する石油王の如く、頭に黒いバンドを巻き、全身白ずくめの衣装を着た髭もじゃの男達が平気な顔で目の前を横切って行く。なぜか皆ヒョロヒョロで長身の者が多く、先程まで機内にいた体格のいいアラブ人とも見た目が違う。待合室まで来れば、辺りにはターバン姿のインド人、ベストにダブダブズボンのパキスタン人、チャイナドレス風の洋服を着た台湾人、カラフルな民族衣装のアフリカ人、そしてアフリカ人にしてはやや彫りの深い顔をしたエチオピア人等々。地球には何て様々な人々がいるのだろうと、ひたすら感動。多くは出稼ぎ、もしくはメッカ巡礼の道中なのだと思う。中にはなぜこの人達が国際空港の待合室にいるのだろうかと思う程、山奥からそのままやって来たような身なりの一団もいる。もしかしたらメッカ巡礼から程遠い立場にある人達のためにUAE等の産油国が経済的に手を貸しているのかも知れない。

 

 乗り継いだ飛行機は先程のものより二周り程小さく、席はまばら。たまたま僕の周囲にはインドネシア人とおぼしき老人のグループが乗っていた。皆小柄で、頭にはスハルトやマハティールがよくかぶっている黒い帽子、体には地味な布をみののように巻き付け、ステッキを持ったその出で立ちは、まるで油すましの親睦旅行に参加してしまったかのよう。誰一人英語がわからないようだが、物おじする様子はかけらも見せない。飲み物を乗せたカートを押しながらスチュワーデスがやって来て、「Coffee or tea?」と聞いて回っていた所、花柄のスカーフをかぶったそのグループの中のある女は「ウーッ!!」と声を張り上げてスチュワーデスをひっぱたいていた。自分達は英語なんて通じない、そんな役立たずの言葉でコミュニケーションを図るぐらいなら話しかけてくるな!! と言わんばかりの勢いだった。なるほど、このような意思表示をすることで彼等は十分にコミュニケーションが図れているのだった。

 

 ドバイを出て約5時間が過ぎた。アラビア語による不可解なアナウンスに反応して目を覚ました僕、眠い目をこすりながら覗いた窓の外にはギザギザの海岸線に沿ってきらびやかに輝く大都会の灯り。そしてその灯りによって正に黄金色に照らし出された地中海! ついに来てしまった。中東はレバノンの首都ベイルート。二十年前ここが「中東のパリ」と呼ばれていた程繁栄していた事実は意外にあまり知られていない。実を言えば僕も、約十日の短期間でほぼ一周できるアラブの国ということでレバノンに決めたのはいいが、この国に関する情報の乏しさには随分泣かされた。今だってほとんど予備知識は無い。しかしその方が感動も大きいだろうと思い、一人旅立った。地図上でもわかりにくい、ましてや危険という噂の飛び交う国へ、一人で、しかも真夜中着の飛行機で、宿の予約さえせずによく行けるものだと人には呆れられた。自分もまた冒険家になったような錯覚を覚えている。普通日本人がベイルートの名前を聞けばまず世界有数の危険地帯というイメージがついて回る。テレビのニュースを見ても、舞台がレバノンであろうが無かろうが中東関連の怖いニュースが流れる度にキャスターが枕詞のように使ってきたあの言葉がやはり潜在的に多くの日本人の心に刻みこまれている以上、無理も無い。

 「ベイルート発ロイター通信によりますと・・・。」

 しかし内戦は十年前に終わっており、国は今復興に向けて前進している最中ではないのか? 戦争の被害を直接被った人々も、近隣諸国に避難していた元難民も、海外脱出先で成功し、帰国後に富をもたらしたしたたかなレバノン商人も、平和な今という時間を僕達と同様に過ごしているのではないのか? いずれにせよそんな疑問を日本人に投げかけるのははっきり言って無意味。実際に行って見てみるしかその答えは見出せないのだろう。

 

 香港、ドバイ、そしてベイルートと、乗り継ぎの度に時刻を調節しているものだから、一体今が何時頃なのかがわからない。夜中の1時を過ぎていることだけは確かだと思う。

 

入国審査の場所には赤いベレー帽に迷彩服、肩には機関銃を下げた軍人達。その数はやけに多いように感じた。僕を含め行列に並ぶ一人一人に英語でレバノンのビザを持っているかと質問していた。そんなこと、これから入国審査するのだから今聞くことも無いだろう、と内心思ったが、どうやら彼等はビザの無い人をビザ取得窓口に誘導しているようだった。空港でもビザを取れるということは噂で聞いてはいたが、状況が流動的なので仮に現場に着いてビザが下りなくても責任は取れないと、日本のレバノン大使館に言われたので、もちろん僕は事前に取得していた。ちなみにこのレバノン大使館、電話応対が冷淡極まりない。日本人でここまで応対の悪い人も珍しいと思ったぐらいだった。

 

深夜のベイルート空港。とりあえず市内に出て宿を捜そう。レバノンは実は物価の高い国と言われているのだが、中でも比較的安い宿が多いのは西ベイルートのハムラ地区だとか。この時空港出口に一人ぽつんと立つ初老の男と目が合った。

 「タクシー、乗りますか?」

チェックのジャケットに鳥打帽姿、白髪に青みがかった瞳を持つ、アラブ人と言うよりパリの街角にいそうな感じの老人だった。

 「ハムラ地区のアンバサダー・ホテルまで。」

僕がガイドブックから無作為に選んだ宿の名前をこの老人に告げると、車はこっちだ、来なさいと言って空港の建物のすみっこにある舗装されていない暗がりの方へと連れて行かれた。時間帯だけに灯り一つ無いぬかるんだ駐車場にはさすがに少しビクついてしまったが、すぐに彼のタクシーは見つかった。何十年前の車だろうか、図体のでかいレトロな雰囲気の外国車だった。

 

 中東に多いと言われるナツメヤシの並木が美しいハイウェイをひた走る。もちろん道行く人も車もほとんど見かけられない。街中でとりわけ目立つのは隣国シリアのアサド大統領のポスター。彼の名をフルネームで言うと日本語ではハフェズ・アル・アサドと言うが、ほとんど子音ばかりで発音されるアラビア語で言われると「ハフェーザラサッ」と聞こえる。

 「どこ行ってもアサドの写真ばっかりだけど、レバノンの人は彼が好きなの?」

運転手の老人に聞く。

 「我々レバノン人は嫌いだよ。ただこの国には沢山シリア人もいるし、彼等は大好きだから私達も普段は嫌いとは言わない。」

彼のこの答えは正に今のレバノンそのものを語っていた。この国に足を踏み入れるにあたって一つ理解しておかなければならないのは、ここレバノンという国は政治的には隣国シリアのコントロール下にあるということである。そもそも歴史的に見てもレバノンという国が第二次大戦前までに存在したことは無く、昔からこの辺一帯はレパント又はシャームと呼ばれ、シリアとレバノンは常に一つの地域であった。近代に入ってこの地がフランス植民地となり、シリア人が独立を求めて騒ぎ出した時、フランスは故意に国境線を引いて今のシリアとレバノンを別々に独立させた。比較的クリスチャンが多く、親西欧的な雰囲気を持つ地中海沿岸地域にレバノンという別の国を作ることで、中東における影響力を残そうとしたのである。従ってシリア人は話す方言さえ同じであるレバノンを外国とは思っておらず、事実両国間には大使館が無い。十年余りの内戦を経た今、レバノンではシリア軍に後押しされた軍事政権が支配している。そのためレバノンには軍人始め多くのシリア人が居住しており、表面的にはシリア一辺倒の雰囲気が見られる。しかし内戦前まではアラブ諸国で唯一民主主義が定着していたこの国の人々、独裁的なシリアのアサド政権をあまり良くは思っていないようだ。

 

 車はやがて遅くまで開いている商店の集まるハムラ地区に入った。老人は僕の言ったホテルの位置関係をはっきりとは知らなかったらしく一旦車を停め、近くでたむろする何人かのタクシー運転手に場所を聞いていた。若い同業者達は僕達の車を取り囲み、老人に対してオーバーな手振りをふまえてホテルへの行き方を説明していた。老人もどうやら理解できたようで再び車を出そうとした。その時、周りの運転手達のうち一人が僕に英語で声をかけてきた。

 「明日以降タクシーに乗りたい時はよろしく!」

彼は窓の隙間からさっと名刺を差し出す。これぞ世界に名高いレバノン商人の心意気か。

 

 やがてすっかり寝静まったと思われる暗い通りで車は停まる。この辺、で唯一灯りの光る所、そこが今晩宿泊するアンバサダー・ホテルの入口であった。ボーイかオーナーかわからないが小さなフロントには色白で長身の若い男が一人おり、僕が顔を出すやスックと立ち上がって何泊泊まるのかと聞いてきた。今晩一泊だけだと、とりあえず答える。

 「レバノンには何日いるんですか? ベイルートを周るならここが一番便利ですよ。」

 「とりあえず今晩だけ泊まりたいんだ。いくら?」

この街のことを何も知らない状態でここだけに何泊も泊まる必要は無い。明日以降手頃な場所を探せばいいのだ。それにもう疲れていたので、とりあえず持っていた米ドルを差し出す。この国では現地通貨であるレバノン・ポンドと同じく米ドルも普通に流通しているらしい。

 「今、細かいお金が無いので、後でお釣りは持って行きます。とりあえず部屋へどうぞ。」

ボーイ(対した男ではなさそうなのであえてそう呼ぶ)はしきりに二泊目以降の宿泊を勧めてきたが、やっとあきらめて僕をエレベーターのある方へと案内した。それは古いヨーロッパの映画に出て来そうな手動扉付きのエレベーター。この宿に着いた時、通りに面した小さな入口を見てどうせ部屋には窓すら無い安宿だろうと思っていたが、いざ上の階まで上がると、奥行きある薄暗い廊下とどこまでも並ぶ部屋の数々に驚かされた。しかも案内された部屋の窓からは中庭さえ見える。それは洋式の館そのものであった。さすがアンバサダーと名乗るだけはある。

 ズッシリ重くて古い鍵をサイドテーブルに置き、しばらく大きなベッドに横になって休んでいると、間も無くドアをノックする音が聞こえた。

 「あと20ドル頂ければちょうど二日分の宿泊代になりますが、どうしますか?」

先程お釣りを持って来ると言っていたボーイだ。さすがはレバノン商人魂。まだあきらめていないようだ。

 「いや、今夜一泊だけで結構。お釣りちょうだい。」

僕もここに二日も泊まるつもりは無かったので、お釣りを早く出せと言い張った。彼はちょっと待っててくれと一旦フロントに降り、やっとお釣りを持って戻って来た。始めから持って来いと言っているのに。商売への図太い根性はわかったが、ただしつこいだけではイメージが悪くなるだけということを知らないようだ。今が何時なのかまだよくわからないが、とにかく今日はもう遅い。明日から始まる未知のアラブ世界散策のため、早く寝ることにした。