第三回 「大陸で得た教訓」
(中国南部・香港・マカオ編)
China
Hongkong
Macao
中国旅の期間:1993年1月19日~2月5日 18日間
訪問地:北京、昆明、石林、シーサンパンナ、広州
香港旅の期間:1993年2月6日~2月12日 4日間
訪問地:九竜、香港
マカオ旅の期間:1993年2月7日~2月8日 2日間
訪問地:マカオ
一章:最初の大失敗
北京外国語学院で中国語を勉強してほぼ一年が過ぎようとしている。17歳の時パキスタンに行って以来、受験そして浪人等、肉体的にも精神的にも困難な日々が続き、三度の食事よ りも大好きなアジアの旅に出発できなかった。そして今回、20歳を迎えた今、僕はこの広大な中国大 陸をパック旅行ではなく、自分の足で歩いてみようと思った。
もっとも、北京在学中全く旅行しなかったわけではない。承徳と 天津に行ったのがそれだが、承徳は学校の日本人学生全員を対象にしたグループ旅行、天津は週末を使って狗不理包子(ゴウブリー・バオズ)と呼ばれる肉まん じゅうを食べに行ったというもの。長い時間をかけて中国をじっくり見た旅はやはりまだ経験していないと言っていい。
この冬、北京は血も凍るような寒い時期を迎えた。外を歩く中国 人は皆通称「八・一コート」と呼ばれる軍払い下げのコートを着ている。これはまるで毛布で作られたようなぶ厚いもので、着るとダルマのようになってしまう が、これでもなお寒いという厳しさであった。僕は旅行に行きたいという気持ちと同時に、早くこの北京から逃げ出したいという気持ちもまた強かった。
今回の旅のパートナーは同じ学院の留学生で、沖縄出身の崎浜さん。僕より七つも 上の兄貴分だ。僕達二人は中国の少数民族に強い関心を持っているという理由から、行く先は少数民族の宝庫、雲南省方面と決まった。更に僕は、中国と全く異 なる体制を持つ香港、そしてカジノとドッグレース以外何も知られていないマカオにも興味があった。
僕と崎浜さんは今回の旅行の目的を三つ確立した。一つ目は春節(中国の旧正月) を楽しく過ごすこと、二つ目は雲南省にある少数民族の楽園、西双版納(シーサンパンナ)へ行くこと、そして三つ目は香港とマカオを見てくることだ。
雲南とは一体どんな所だろう? 僕はある日校内の中国人寮に行き、英語を学ぶ北京っ子の友達と話をした。
「昆明(雲南省省都)出身の奴を知ってるよ。紹介するから彼に 話を聞くといい。」
彼は自分の部屋に僕を少し待たせ、やがてその昆明の友人を連れて 来た。彼の名は鄒赤勇(ゾウ・チーヨン)。この学院でクメール語(カンボジアの言葉)の勉強をしている。北京っ子の彼は鄒赤勇に言った。
「彼は日本の友達だ。雲南に行くそうなので、案内してやってく れないか。」
すると彼は少し戸惑いの表情を見せてこう答えた。
「雲南に関する情報は出来る限り彼に提供する。だけど僕は今回 家族や友人に会うために昆明に帰るので、ずっと案内してあげられるかどうかはわからない。」
それはもちろんだ。急に呼び出すやいなやガイドになってくれなど 頼むつもりはさらさら無い。ただ雲南関係の情報を聞かないよりは聞いた方がいいと思っただけなのだ。
「忙しい所を呼び出して本当に申し訳無いけど、雲南についてま だよくわからない所があるので、いくつかの質問に答えてくれるかい?」
「ああ、いいよ。」
鄒赤勇は気軽に応じてくれた。
僕:「まず最初に、北京から昆明まで汽車でどのぐらいかかるんだ ろう?」
鄒:「54時 間だ。飛行機なら4時間ぐらいだね。」
僕:「片道の列車賃はいくら?」
鄒:「硬座(座席のみ)なら120元(2,760円)、硬臥(寝台車)なら180元(4,140円)、軟臥(個室)なら300元(6,900円)以上じゃないかな。飛行機な らもっとかかるよ。」
僕:「もし1月20日に出発するとすれば、いつごろ切符を買えば間に合うだろう?」
鄒:「12月17日頃だね。だけどもう春節だから寝台車はもう埋まってると思うよ。硬座ならまだあると思うけど、座席だけ で二日半は中国人の僕でも死ぬほどきつい。やっぱり飛行機がおすすめだね。西単の民航オフィスに行って聞いてみるといい。」
僕:「君はいつ帰るの? そして切符はいつ買うの?」
鄒:「15日 か16日を目安にしてるよ。今北京に親戚が来ていて、彼等が民航に知り合いがいるので、もしかした ら彼等と一緒に飛行機で帰るかも知れない。だめなら列車の切符を買うよ。」
僕:「昆明からシーサンパンナへの交通は?」
鄒:「あそこは列車が通っていない。一日一回バスがある。飛行機 もあるよ。」
僕:「時間としてはだいたいどのぐらい?」
鄒:「バスなら二日ぐらいかかるね。飛行機なら一時間とかからな いよ。」
僕:「昆明でおすすめの場所はどこ?」
鄒:「やはり西山公園から眺めた滇池が絶景だね。食べ物は過橋米 線という麺がおいしいよ。」
僕:「昆明から香港への交通はある?」
鄒:「うーん、それはちょっとわからない。何しろ僕達中国人はあ そこへは行けないからね。昆明に帰ってから調べてあげるよ。」
僕:「シーサンパンナに行ったことはある? もしあるならどんな所?」
鄒:「僕は行ったことが無いんだ。」
僕:「昆明には安い宿泊施設はあるかい?」
鄒:「あるよ。昆明なら安くて一日10元(230円)そこそこの所もあるよ。シーサンパ ンナだって多くの外国人が行きたがる所だから絶対にあるはずだ。」
僕:「昆明は大体どのぐらい滞在すれば十分かな?」
鄒:「昆明は石林と合わせて五日ぐらいで十分。シーサンパンナも 三日ぐらいでいいんじゃないか?」
僕:「最後に、現地に着いて気候や健康面で気をつけることは?」
鄒:「問題は無いと思う。昆明に冬は無いから、寒くてもセーター 一枚で足りるし、万一のためにカゼ薬でも一袋持って行けば怖い物無しだ。」
「どうもありがとう! 十分参考になったよ。」
僕は別れ際に彼と握手した。
「昆明でもし何か困ったことがあったら僕に連絡してくれ。い や、別に用が無くても連絡してくれ。」
彼はそう言って昆明の住所と電話番号を教えてくれた。この出会いが僕と鄒赤勇の後 々の友人関係のきっかけとなった。
その後僕と崎浜さんは相談の結果、一ヶ月あるかどうかわからな い時間を考え、本来中国の旅では邪道とされる交通手段、飛行機を使うことにした。
12月31日、僕達二人は西単(シーダン)という市内の繁華街にある中国民航のオフィスに行った。去年雲南に行った という日本人の話ではFEC 700元(1万6,100円)ぐらいだと聞いていたので、ほぼその位の金を持参した。
ここで中国の通貨事情について少し解説しなくてはならない。中 国には二種類の紙幣が存在する(注:1992年当時)。一般中国人の使う人民幣(レンミンビー) と、外貨とのみ交換できる外国人専用のFEC(兌換券)である。法律上両者は平等と言われるが、事 実上FECの方が1.5倍ほど人民幣よりも 強い。人民幣には100元、50元、10元、5元、2元、1元、5角、2角、1角、5分、2分、 そして1分があり、中国の歴代指導者が描かれた100元、 農民や労働者が描かれた50元を除けば、中国の各民族が二種類ずつ描かれている。FECには100元、50元、10元、5元、1元、5角、 そして1角があり、中国各地の名所が描かれている。また、ややこしいことに60年代使用された旧札は発行停止になっているものの回収されていないため、今でも新札に混じってチラホラ見 かける。十枚に一枚は混じっていると言っていい。主に見られる旧札は、人民幣の10元、5元、2元、1元、5角、2角、そして1角で、それぞれ労働者が描かれている。それにFECの100元と50元である。従って僕達は今の中国で、二 十数種類もの紙幣を目の当たりにすることができるのだ。
話を戻そう。民航オフィスの門をくぐった僕達は早速外国人専用 窓口という所に並んだ。外国人窓口とは言うものの前に並んでいたのはほとんど中国人。この窓口はFECで さえ払えば国籍は問わないようだ。聞く所によると航空券の値段は年々上がっているようだ。持参のFECが 足りるかどうか少し心配だった。やがて僕達の番になり、まず北京から昆明までの航空券があるかどうかを聞いてみた。券はまだ残っているとの答え。そして値 段の方は?
「片道で一枚FEC 1,160元(2万6,680円) です。」
何だって? たった一年でそんなに値上がりしたのか? 僕は持参のFECを数えた。元々700元そ こそこしか持ってないにもかかわらず、一枚一枚こまめに数えた。
「もう元札を数え切っちゃったじゃないか。あきらめろよ。」
崎浜さんの一言を聞いた時、僕は5角札や1角札までも数えていたのに気が付いた。崎浜 さんも準備してきたのは1,000元。仕方無い。幸い明日お金を持って出直して来ると言ったら、窓 口は切符を二人分キープしてくれると言うので、僕達は西単を後にすることにした。
1992年 の最後の夜が明け、元旦の朝を迎えた。僕と崎浜さんは海外で初めて迎えた新年早々、切符を買いに出発だ。僕達はまず北京最大の規模を誇る仏教寺院(正確に はラマ教寺院)、「雍和宮」へ初詣に行った。寺院を参拝する人々は決して少なくはなかったが、日本の新年の賑わいに比べれば断然少なかった。そもそも中国 人にとって正月は今日ではなく、やはり春節なのである。 参拝後、地下鉄で西単の民航オフィスに向かった。オフィスの二階には中国銀行が あり、外貨をFECに換えてくれる。僕達がそれぞれ持参の日本円をチェンジすると、その日の交換 レートは昨日よりやや上がっていた。僕達は1,160元のFECを 手に、あの外国人窓口に並んだ。取っておいてもらった切符を渡され、お金を払うと何と一人30元の お釣りが返ってきた。切符は一人1,130元(1万4,600円)だと言う。たった一日で30元も値下が りしたのは銀行の交換レートに関係しているのだろうか。これもまた中国の不思議の一つである。
とりあえず航空券を手にした僕達、まだ学校のテストが残ってい るため、出発の1月19日までゆっくりと準 備を整えることにした。
その日はやがて訪れた。朝7時起床、8時出発という計画を立てたが、翌朝ふと目 を覚ました所、7時半を過ぎていた。がんばれ中国製目覚まし時計、朝寝坊するな! 幸い荷物は前日既にまとめておいたので、着替えて顔を洗い、すぐに崎浜さんのいる隣の宿舎に向かった。寝坊したとは言え、飛行機は11時5分発。まだ時間があるはずだ。僕は崎浜さんと 荷物の最終チェックをし、とりあえず重い荷物だけ一階出口まで持って行こうとした。するとその時、崎浜さんのルームメイトの亀井さんが廊下で突然カン高い 一声を発した。
「崎浜さんとLing Muちゃんが出発するよー! さぁ、見送りに行こう!」
この時期は皆国に帰ったか、旅行に既に行ってしまったかで宿舎は ガランとしていたものの、一人、二人と友達が廊下に出てきた。
「行ってらっしゃーい、気をつけて!」
8時10分。 僕達は少ないながらもまだ宿舎に残っていた日本人学生達にも送られて出発した。彼らの中の数人はもうすぐ留学を終えて帰国するので、これでお別れとなる。
しかし考えてみると、僕達は元々荷物を移動させるために一階に 降りただけではなかったのか? どうやら出発したと言うより、出発させられたようだった。
こうして僕と崎浜さんの珍道中は始まった。まず最初に銀行に 寄った。今現在僕の持ち金は日本円10万円とわずかな人民幣とFEC。中国国内だけの旅行なら十分であるが、香港に入るとなるとこれまた金がかかる。本来銀行にあるお金は 旅行から帰って来た後の生活費にするつもりで、香港では崎浜さんと力を合わせて何とか持ち金だけで済ませようと思っていた。しかし出発の一日前に突然崎浜 さんが香港行きを断念したことから、この計画を急遽変更せざるを得なくなった。香港からは僕が一人になるので、万一のことを考えて、もう少しばかりお金を 下ろしておくことにした。崎浜さんは元々沖縄にいる祖母の誕生日を祝うために香港から直行で帰るつもりでいた。しかし帰国する際必要な荷物が増え過ぎてし まい、旅行中じゃまになるので北京の宿舎に置いて来たため、雲南を回った後再び北京に戻らなくてはいけなくなった。そして北京から帰国することにしたので ある。
そんなわけでひとまず銀行へ。営業の始まる9時までしばし待ち、門が開くやいなや一番乗りで窓口に駆け込んだ。無事お金を手にした後、僕達はタクシーを 拾った。
「首都空港まで。10時 までに間に合うか?」
崎浜さんが聞く。間に合う、運転手はそう答えた。しかしやはり春 節五日前。道路は帰省ラッシュで混雑している。遅くとも10時には着いていなくてはならない。そし てこのタクシー、助手席に一人の女が座っていた。彼等二人の親しげな動作や話しぶりから、僕達はてっきりこの二人は夫婦だと思っていた。ところが乗車して から数十分後、ある路地沿いで女が降りたのだ。この女は何者でもない、僕達と同じただの乗客だったのである。
「で、あんた方が行きたいのは、どこだったっけ?」
運転手は女とのおしゃべりに夢中だったので、僕達の行く先をすっ かり忘れてしまっていた。しかし僕達は怒るのを抑えた。とにかく早く空港に行かなければ話は始まらないのだ。 やがて空港まであと10キ ロという看板を見つけた。あと8キロ、7キ ロ、急げ!
タクシーはようやく空港にたどり着き、時計を見ると10時40分。まだ間に合うだろう、僕達はそう信じ 切っていた。
国内線のチェックインカウンターがどこなのかよく分からず、近くのデスクの服務員に航空券を見せ、聞いてみた。その時服務員から一言。
「11時5分初の昆明行きの飛行機かい? 10時半にもう手続 は終わったよ。」
この瞬間、僕と崎浜さんは互いに引きつった顔を見合わせた。ここ にたどり着く10分前に手続が終わってしまったなんて!
これからどうすればいいのか。しばらく呆然としていると、その 服務員は親切に声をかけてくれた。
「今日はまずムリだ。それは仕方無い。明日も同じ時間帯に昆明行きがあるはずだ。とりあえず航空券売り場に行って事情を話して、この券で明日の飛行機に乗れるかどうか聞いてみるといい。もし何か困ったことがあったらまた来なさ い。」
僕達はまずこの航空券を発行している中国国際航空公司の事務所 を探すことにした。中国には中国民航以外航空会社は無いものと思っていたが、こうしてあちこち回ってみると、「雲南航空」とか「中国北方航空」等数多くの オフィスが見られた。民航は独立採算制のもと、約十種類もの航空会社に分割されたそうだ。しかし国際航空などという看板の下がった事務所はどこにも無い。 仕方無いので所々にいる服務員に聞く。 「三階だ。」二階の服務員は答えた。そして三階に上がって再び聞いてみる。「この階の東側だ。」三階西側の服務員 は答えた。 「国際航空? 二階だ。」 これは三階東側の服務員の答え。変だなと思って二階に降りてまた聞くと、そこの服務員は言った。
「この空港すべてが国際航空公司だ。」
全く社会主義国家特有のたらい回し式無責任さである。この航空会 社に電話をかけようと試みたが、同社発行の航空券には電話番号すら書かれていない。一体この航空会社は何者なのか? 最後までその実体はわからなかった。
それでは航空券の売り場に行って聞いてみるしかあるまい。早速 一階のチケットオフィスに駆け込んだ。
すさまじく多くの人が並んでいる。いや、並んでいると言うより 窓口を中心に人々が扇形になって押しくらまんじゅうしていると言った方が正解だ。だがこの程度ならまだましなのだ。北京の街ではもっとすごい。客は割り込 み放題、すぐに発生するけんか、こんな人々を年中目の当たりにしているせいか、彼等に応対する服務員の態度も最悪。これを見る外国人は皆中国人のマナー感 覚を疑う。もっともそうでもしなくてはこの面積、人口、民族の数ともにアジア最大を誇る中国では生きていけないと、これを肯定する人も中にはいるが。
僕達がこの列になっていない列に並び始めて数十分後、そろそろ 僕達の番が来るかなと感じ始めた頃、ふと時計を見ると正午をさしていた。窓口にいた何人かの服務員が一人、また一人と裏口から出て行く。もしかして彼等の 業務はこれで終わりか? 僕達の前にはあと二人しかいないのに窓口を閉めるのか?
結局一人だけ服務員が残って事務を続けていたが、やはり早く仕 事を終えて休みたいらしく、普段でも無愛想なのが一層つっけんどんになる。男が二人か三人、「ちょっと聞くだけだ」と言って割り込んできて服務員に何か尋 ねたが、すべて「没有(メイヨウ・・・無いの意味)」の一返事。そんなこんなでやっとこさ僕達の番となり、崎浜さんが今朝の事情を簡単に話し、明日もしく はあさって昆明行きの飛行機はあるか、もしあるならこの券を転用できないかと聞いたが、どれもやはり「没有」で片付けられた。こんな時どうすればいいの か、重ねて聞いたが「不知道(ブージーダオ・・・知らない、わからないの意味)」と、またもや簡単に突き放された。
ここは仕方無い。とりあえず昼食をどこかで済ませてから落ち着 いて考えよう。いずれにせよ今日昆明に立つのは恐らく無理なんだ・・・。空港の周りに安い飯屋があるかどうか見て回ったが、どこにもそれらしき所は見当た らない。そもそもこの辺一帯は人の住むような場所ではないのだ。人の住まぬ所に飯屋などあるわけが無い。僕達は空港にUターンし、中のレストランでカレーライスとサンドイッチ、それに飲物を注文した。これだけで何と80元(1,840円)は越えた。普段北京で外食する にしても一人10元かからない。だが今回はやむを得まい。僕達は明日の昆明行きの成功を祈って乾杯 した。