第九回 「リアルモンゴル、つまみ食い」 
     (モンゴル編)

Mongolia


モンゴル旅の期間:1999年8月13日~8月20日 8日間

訪問地:ウランバートル

 




一日目:ウランバートル着

モンゴル時間深夜1時30分、ミアット・モンゴル航空の小さな機体は首都ウランバートルのブヤントゥハー空港に到着した。トレッキング姿に身を固めた日本人の老若男女と一緒に流されて行けば、たった二ヶ所しか無い入国チェック窓口に突き当たる。そこをいとも簡単に通過し、荷物を受け取ればすぐに出口。どう見てもアジアの地方空港そのものだ。

 「お疲れ様でした、ようこそモンゴルへ。」

小さな出口の周囲に固まる数人のモンゴル人に交じって加藤さんが出迎えに来ていた。

 僕がここにやって来るきっかけを作ったのは元々北京留学時代の仲間で、現在大阪に留学中の内蒙古人、オルトであった。彼の呼びかけでかつて中国を共に駆けた同志、沖縄の崎浜さんも加え6年前の内蒙古旅行グループを再結成し、ウランバートルに住むオルトの友人を訪ねて外モンゴル進出を企てていたのだった。ところがこの話、7月頃から二転三転。オルトが急に内蒙古(つまり中国)に帰郷しなくてはならなくなり、その後日本に戻ってからでは経済的に外蒙古行きは厳しいとドタキャン。更には崎浜さんもこの時期、那覇での塾講師のバイトが夏期講習で忙しくなると言い出したのだ。ちょっと二人共、今頃になって何を言ってるんだぁーっ!! と、頭を抱えた時には既に僕の分のビザと航空券の手配は開始されていたのだ。最強の相棒二人がいない。現地に知人もいない。言葉も通じない。情報もほとんど無い…。一週間という限られた時間、たった一人で果たして旅を満喫できるのか!? 正直しばらく路頭に迷っていた。

 

 ところがチャンスを失ったその直後、新たなチャンスが巡ってきた。数日後インターネットでたまたま興味深い団体を見つけたのが事の始まりだった。旧ソ連アジア系共和国やモンゴル、中国の少数民族出身の在日留学生への支援や、彼等との文化交流を行っている某NPOで、早速会報会員に登録してみた所、後日送られてきた会報で偶然「会員親睦ツアー」の広告が目に入ったのだ。これは各国に太いパイプを持つ同NPOの日本人幹部会員が毎年主催し、会員のみが参加できるものらしい。ツアーと言っても少人数なので実質上個人旅行の延長線上である上、今回は行き先としてモンゴル、ウズベキスタン、そしてロシア連邦カルムイク共和国の三種類のツアーが各主催者によりほぼ同じ時期に企画されており、参加者の分散が予想されるので通常より更に少人数になる見込みとか。内容もなかなかディープなテーマを持っており、例えばモンゴルの場合、都市部の一般家庭にホームステイしたり、路上孤児になる前に自立を支援する「子供発展センター」視察等も組み込まれた、草原一辺倒ではないリアルなツアーだとうたわれていて、なかなか視点が面白いと思った。しかもこのツアー、何と出発日、帰国日が元々の計画とぴったり合致しているときた。これはNPOさまさまだ。僕は早速主催者の加藤さんに参加申込みの電話を入れた。

 

 加藤さんと一緒に迎えに来てくれた友人の女性、トヤさんの運転する車でひとまず加藤さんの家へ。さすが草原に建設された空港、何も無い草っ原が続く。約15分程で見えてくる街の灯、その中心にあるスヘバートル広場に割と近いロケーションに立ち並ぶ社会主義時代を彷彿させる国営高層アパート群。ここの九階に加藤さん宅はある。このアパート、夜の8時には節電のためエレベーターを停止してしまうので、僕達三人は階段を使って九階まで上がった。アジアの旅はこのように一時一時が運動である。各階踊り場には裸電球がぶら下がっており、真っ暗でないだけ中国のアパートよりちょっとはましかも。それにしても壁という壁に一面描かれた落書きはすごいもの。太マジックやスプレー等で絵やら文字やらで散りばめられたその壁は、正に映画に出てくるニューヨークの地下鉄駅といい勝負だ。だがモンゴル語が堪能な加藤さんに言わせれば、落書きの内容はまだ「カワイイ」という。そのほとんどは今の所「誰々ちゃん命」とか、「俺達ずっと仲間だぜ」といった程度に留まっており、まださほど過激なメッセージは無いという。急激な資本主義化により、失業や犯罪が増えてきているらしいが、これら落書きから見る限り、若者の心もまだそこまで疲弊してはいないのだと思えば、まだ見通しは明るそうだ。アメリカの雰囲気を真似するのはどこの国も同じだし。

 

 木製の二重扉を開け、しばらくお世話になる加藤さん宅に到着。加藤さんの奥さんはモンゴル人で、現在子供は二人。それに奥さんの兄が居候しており、家ではモンゴル語だけでコミュニケーションしている。加藤さん自身はここにずっと住んでいるわけではなく、日本とモンゴルを行き来する生活をしていて、今回もモンゴルには戻って来たばかりなのだ。この時間、家族は皆それぞれの部屋で就寝中だったので、僕達はとりあえず台所の小さな椅子に腰を下ろした。加藤さんがコーヒーと軽い食事を用意してくれている間、僕はトヤさんと少し会話にチャレンジ。とは言ってもモンゴル語などごくごく基礎的な挨拶を二、三言知っている程度。だが知っている限りのモンゴル語を全部言ってみるだけでも随分違う。自分の国の言葉をしゃべってくれれば誰だって嬉しいもの。また、現在外モンゴルの人々はロシア(キリル)文字を使ってモンゴル語を表記している。幸い僕は11年前に行った初めての海外が旧ソ連中央アジアだったので、意味は理解できなくてもロシア文字自体は読み書きできる。そこで自分の名前等を書いてみるとトヤさんも目を見開いて驚き、十分親近感を持ってくれたようだった。後で加藤さんに聞いてみると言葉が全く通じていない割には随分盛り上がっていたようだ。レバノンでの体験の成果かな?

 

 ここに来てからわかったことだが、今回の某NPOの親睦ツアー、その参加者は主催者の加藤さんを除けばどうやら僕一人のようだった。ちょっと寂しさを感じないことも無いが、いかにもパッケージツアー的な旅行よりは知人を訪ねての旅としての色合いが濃い方が面白いし、融通も効くだろう。また加藤さん宅にはこの時期、NPOとは関係無く、モンゴル旅行にやって来た何人かの知人の日本人旅行者が入れ替わり立ち替わり寝泊まりしているらしい。今回の旅の性格上、主に都市部滞在型になる僕の場合とは違い、彼等の多くはリピーターで目的は大草原であるため、加藤さんもそれほど彼等の旅に付きっきりであるわけではない。とは言えその数も五、六人だから送迎や食事の準備等の雑用も多く、加藤さんにとっては正に多忙極まり無い一週間の最中、僕が来てしまったのだ。台所に貼られた、モンゴル語の書き込みびっしりの予定表がそれを物語っていた。

 今晩は女性旅行者が二人ここに泊まっているそうなので、僕は広間に敷かれた布団で眠ることになった。トヤさんが帰った後、荷物を持って広間に入ると、窓が全開になっており、外の冷たい風がビュービューと吹き込んでいた。昼と夜の温度差が大きいこともあるのだが、ウランバートルの八月はもう秋。その肌寒さを知ったのは現地に着いてからだった。とりあえず窓を閉め、あまり使わないだろうとばかり思っていたセーターを早速取り出して着る。布団に横になる時ふと隣を見ると、ソファーの背もたれを横に倒した仮設ベッドで一人の男性が気持ち良さそうに眠っていた。彼は奥さんの兄で居候のゾリゴー氏。この寒い部屋、裸でしかも布団すらかぶらずにいた。相撲取りを思わせるその体格は皮下脂肪が人より厚そうではあったし、特に心配しなくてもいいのだろうか。