第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
          
(ミャンマー編)

Myanmar


ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間

訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン


 



一日目:とりあえず着きました~

 

今の職場で中国担当の仕事をしていて唯一お得なこと。それは顧客が連休となる中国の春節(旧正月)の時期に休みが取り易くなること。他の日本の友人達が仕事等で忙しい時期にちょっと申し訳無いナ、と感じながらも、また元気よくアジアの旅へと出発する機会が巡ってきた。アメリカ人の旅仲間ビルを通してフィリピン、NGO活動を通してカンボジアと、2001年以降どういう縁か行く先が立て続けに東南アジアばかりとなっている。そして今回の行く先も同じく不思議な縁で巡り会ってしまったミャンマー。あんまり同じ地域ばかり続くと、たとえ初めての国であってもある部分はどこも同じように見えてきて、本来感動できるものが感動できなくなってしまう懸念はあったが、この数年で出会った人々が一様に太鼓判を押す国ミャンマー。そんなに言うのなら、その魅力とやらを体感してやろうじゃないか、と半ば半信半疑で出発を決意した。

 

ミャンマー大使館の一等書記官ともふとしたことでちょこっと顔見知りになったお陰で、仕事が終わった夕方以降に堂々と大使館へビザ申請に行けるという超特別待遇ですんなりとビザ取得に成功。旅行会社で働くミャンマー人とも知り合いになったお陰で、チケットもすんなりとGET。 と、そこまではよかったが、このフライトは成田-バンコク間がシンガポール航空、バンコク-ヤンゴン間がタイ国際航空という新ルート。9時半のフライトだってのに、航空券は成田でバウチャー引換えになるので、出発二時間前、つまり7時半には成田に着いていないと受取ができないらしい。何でそんなに早く行かなきゃいけないの~!? というわけで、眠い目をこすりながら夜明け前の朝5時には家を出るはめに。。バスはまだ走ってないので大荷物を担いだ僕、徒歩で最寄りの駅へとトボトボ歩いて行く。

 

今回お会いするのはヤンゴン在住の元文通友達ノーノーと、そのご主人で日本語学校を経営する日本人のN先生。そして最近文通を始めたタンダちゃんである。N・ノーノー夫妻は日本に来た際に会ったことがあるが、タンダちゃんは今回初対面だ。ヤンゴンではN・ノーノー夫妻のお宅にステイしながらミャンマーのいくつか興味深い場所を訪ね歩く予定。北は世界遺産のバガン、東は世にも不思議な岩があるというキンプン、西はノーノーやタンダちゃんの故郷であるパテイン等に足を延ばそうと思っている。

 通常10日程度の旅なら小型のボストンバッグ一個で十分な僕。そもそもアジア旅は何かと移動が伴うので、軽装で行くに越したことはない。しかし・・・、今回現地では知人達に全面的にお世話になる以上、「お土産」や「頼まれ品」を持参するというミャンマーでは常識の義務が発生する。ノーノーからは化粧水をふき取るコットン六箱(一個はティッシュ箱大)、それに煎餅ともなかの詰め合わせ。N先生からはカップラーメン2,000円分を頼まれていた。加えてパテインでお世話になるノーノーとタンダちゃんの実家へのプレゼント(お菓子類)を含めると小型ボストンバッグには収まりきれず、久々に大型ボストンバッグが動員された。ま、今回N夫妻が空港まで出迎えに来てくれるし、そこまでの辛抱だ。 

 

 そんなこんなで成田を飛び立ち、まずはバンコク・ドンムアン空港へ。往路ではタイに入国しないので、そのままトランジットへ進んだ。しかしこの時気付く。成田でチェックインしたのはシンガポール航空。機内に預けたボストンバッグはバンコクまでだった。僕はバンコクで荷物を一旦受取ろうと思っていたが、受取には入国しないといけない。そこでタイ航空のチェックインカウンターへ走って相談した。係員はどこかに電話をかけ、一言二言タイ語で何か話をすると、「OKです。荷物はヤンゴン行きのフライトに転送しました」と自信満々に答えた。とりあえず安心したので、出発までバンコクの友人に電話をしたり、待合室で一眠りしたりして過ごす。念のため、出発直前にもう一度カウンターで荷物がちゃんとヤンゴン便に運ばれたかを確認した。「OKです」。再び頼もしい返事が返ってきた。よし、では出発!

 

 ドンムアン空港では、前日新聞を賑わせたカンボジアでのタイ大使館焼き討ち事件にすぐ反応してか、この日プノンペンに飛ぶフライトのカウンターは軒並みキャンセルの札を下げていた。とは言え別段緊張感も感じないまま、僕は前回カンボジアへ行った時と同様、まるで国内線のような小さな機体に乗り込み、ヤンゴンへと出発した。機内のほとんどが欧米の老夫婦や親子連れ。そしてこのシーズンにしては意外と多く目につく日本人。僕の隣の席の人は大阪出身でミャンマーは二回目とのことだった。ヤンゴン着後すぐに国内線で西部の沿岸都市タンドウェに行くらしい。

 

一時間というのは短いもの。大阪の旅人とちょこっと会話していたふとその時、眼下に見えてきたのは首都ヤンゴンの街の灯。しかし飛行機はなぜか同じ場所の上空をずっと旋回し続け、到着時間は結局40分も遅れた。どうやら軍幹部を乗せた飛行機の着陸が優先されたらしい。この国ならありがちな話だとか。着陸後タラップを降りると、待っていたのは「西武交通」と書かれた日本の中古バス。日本語で「入口」とそのまま書かれている扉に妙な懐かしさを感じながらその車両に乗り込み、ターミナルビルへと向かう。車内で一緒に吊革につかまっている欧米人旅行者達。カタカナとローマ字で書かれた「シルバーシート」のステッカーの貼られた窓を見て、何だこれはと不思議そうに凝視している。ミャンマーに来てる彼等が思いっきり日本のバスを体験している様子にちょっと吹き出しそうになる。

 

節電しているのか照明がやや暗いターミナルビルの雰囲気は空港と言うより鉄道の駅のよう。遥か高い天井に扇風機のようなものが回っているが、涼しさの恩恵は我々の所まで届かない。ああ、いよいよミャンマーに来たんだなぁ。入国審査の女性職員が入国者の行列に対し、順番が回ってくる前からパスポートを出すよう促す。この時彼女が少し見せた笑顔はこの場にしてはかなり意外だった。やがて入国スタンプの押されたパスポートを受け取ると、すぐに次のカウンターで噂の強制両替。200ドルをここでFEC(兌換券)というこの国でしか通じない特別な紙幣に交換させられる。かつて中国にもあり、ボッタクリと外国人差別の象徴として悪名高かった。僕と大阪の旅人、一緒にパスポートを出したからか、両替所の係官は二人分まとめて一枚の領収書を書いてしまう。ちゃんと分けろと言ったが、ノープロブレムと笑顔。普通どこの国でも入国審査官が笑顔を見せるなんてことはほとんど無いが、ミャンマーは何か違う印象を受ける。もっとも強制両替など理不尽極まり無いこの国の政策に従わされている以上、いくら笑顔を見た所で決して気分のいいものではなかったが。ま、考えてみればここで両替したFECは原則的に二度とドルに戻せないので、この領収書を何らかの場面で使うことはもう無い。結局どうでもいいのか。

 

今回荷物が多いから、税関でいろいろ聞かれたら面倒くさいなぁ~、なんて思いながら、ターンテーブルで回っている荷物を一つ一つ見つめる。大阪の旅人の荷物は比較的早く流れてきた。彼はこれから国内線に乗り換えるとのことで、ここでお別れした。彼は隣の席だったから僕の荷物ももうじき流れてくるだろう。他の人に間違えて持って行かれないように注意して見ていないと! 

 しかし・・・。様子が変だと思い始めたのはコンベア周囲から外国人の姿がいなくなった頃だった。僕の荷物、ちょっと時間かかり過ぎじゃないか? コンベアの先頭まで行って荷物の投入口を凝視するが、あのお土産一杯に詰まったボストンバッグは一向に出て来ない。そうこうしているうちにコンベアの動きは止まった。残された荷物は一箇所にまとめられたが、その中に僕の荷物は・・・、やっぱり無い・・・。 

 「すみません、他に荷物はありませんか?」 

近くにいた係員に聞くが、素っ気なく「ノー」と言うだけ。おいおい、ちょっと待てよー。バンコクであれほど確認したのに! とりあえずここは一旦出口に出て、出迎えのN先生達に相談しよう。幸か不幸か、行方不明のバッグの中は全部贈り物。身の回り品は全て手荷物のナップザックに入っていた。最悪はザックだけで数日はしのげる。出口近くの税関ではそのナップザックを開けさせられた。係官はしばらく無言で物色していたが、以前ノーノーから航空便でプレゼントされたシャンバッグ(エスニックな刺繍の入ったこの国でよく使われる肩掛けカバン)が入っていたのを見ると、「オー、ミャンマーバッグ!」と急に微笑みを見せ、すぐに終了。僕は急いで出口のゲートを出ることにした。 

 「タクシー、タクシー!」 

ゲートの向こうをいくら見回してもロンジー(腰巻の民族衣装)姿の運ちゃんばっかり。そこに夫妻の姿は無かった・・・。荷物を失い、頼りにしていた仲間も来ていない・・・。到着して早くも目の前が真っ暗になった・・・。

 

 さてさて困った・・・。しかし路頭に迷っている場合じゃない。幸いN先生の住所と電話は控えていた。とにかくまず電話だ。電話かけたから解決できるというわけではないが、少なくとも知人の声を聞き、事態の原因を知るだけでも冷静を取り戻し、トラブルに立ち向かう勇気も出てくるに違いない。と言っても、出口近くに数台並ぶ公衆電話、どうやってかけるの?? オタオタしていると、近くのタクシーサービス窓口の女性が流暢な英語で声をかけてくれた。 

 「電話かけたいの? ならここの電話使っていいわよ。」 

目の前の暗闇に一寸の光が灯ったような気がした。僕はわらにもすがるようにN先生の電話番号のメモを見せると、女性は手前の電話の受話器を取り、その番号をプッシュしてくれた。そしてビルマ語で受話器の向こうの相手と数言交わすと、すぐに本人が出たと言って僕に代わってくれた。 

 「あの~、今空港出口に出てきたんですが、誰もお迎えに見えてないようなんですけど・・・。」 

海外まで知人に会いに来て、入国早々こんな言葉だけは口にしたくはないと思っていた。すると電話の向こうのN先生、何とも平然とした調子で言うではないか。 

 「ええ。授業があったもので。多分自力で来られるだろうと思ってましたから。」 

せんせ~っ! それ、日本人の回答じゃない~っ! と、言うのはややオーバーだったが、よくよく聞くと、今朝方、夜の授業が入ったので出迎えに行かれなくなったというメールを送ってくれたらしい。しかし当日は夜明け前に出発していた僕、そのメールを読むすべが無かったため、今回の行き違いが生じたようだ。 

 受話器を下ろすと窓口の女性は言った。 

 「今の人って、日本人? 最初ちょっとしゃべった時、ビルマ語がうまいからびっくりしたわ。」 

 「だってあの人はミャンマーで最初に日本語学校を建てた人だしね。」 

 「えっ、もしかしてあの有名なN先生!? 私の妹もその日本語学校の生徒よ!!」 

なんと世界は狭いもの。と言うか、N先生、巷ではなかなか有名人であった。それが幸いしてか、窓口の女性は僕の荷物紛失の件についても非常に親切に相談に乗ってくれた。

 「荷物の受取口の近くに紛失物窓口があるの。そこで黄色い証明書を書いてもらえば翌日には空港から連絡が入るはずだから、その時またここへ取りに来ればいいのよ。」

言われた通りの手順で黄色い証明書をもらう。これを発行してもらっていた人々は結構いた。今日はもう仕方あるまい。このままN先生宅へ行くとしよう。お世話になったタクシーサービスのタクシーを利用することにした。料金は5ドル。現地人からすれば高いのかも知れないが、今の僕の立場であれば二つ返事で即払える金額だ。

 

 ネオンも街灯もあまり無い夜のヤンゴン。だからこそいきなりライトアップされた巨大パゴダが現れると、何だかディズニーランドよりも幻想的に感じる。どの車も日本と同じ右ハンドルであるのは旧イギリス領の国だから当たり前だと思っていたが、なぜか違和感を感じずにはいられない。それもそのはず、道路はアメリカや中国と同じ右側通行という何とも矛盾する交通スタイルなのだ。一説によるとかつてこの国を支配した社会主義政権の独裁者ネ・ウィン議長が路線上対立していたソ連型社会主義をイメージさせる「左」を嫌ったため、通行についても従来の左側から右側に変更したのだとか。しかし車のハンドルの位置については特に規定をしていない上、車はほとんど使い古しの日本車なので九割近くが右ハンドル。それにしても運転しにくそう。これら車両のナンバープレートはすべてビルマ数字が使われ、全く読めない。そんな不思議な道路事情で束の間不安を忘れながら、とりあえず今晩はN先生宅に着くことをゴールとしよう、と勝手に決めた。

 

 かくしてN先生のマンションに無事到着~。マンションの前ではN先生とノーノー、そしてもう3才になる娘のサクラちゃんが揃って出迎えに来ていた。

 「こんにちは、ご無沙汰してますー。」

 「メールが行き違いになっちゃったようですね。」

 「まー、住所頂いてたお陰で何とか来られましたよ。」

 「ハハハ、しかしヤンゴンに来てその格好は暑すぎるでしょ。」

長袖シャツに靴を履いた僕を見てN先生は言った。周囲を見てもサンダル以外の履物を履いた人は他に見当たらない。カンボジアに行った時でさえ、遺跡観光の際は滑らないように靴を履いていたが、この国ではどこへ行くにもサンダルでOKのようだ。しかしほとんど0度近い東京から来た僕に取ればこの蒸し暑さはたまらない。

 「今日は25度だから、涼しい方ですよ。」

N先生は本当に涼しそうな口調で言った。

 「ミャンマーはね、三つの季節があるよ。それはね、雨季と、乾季と、その間の涼季です。今は涼季ですよ。」

ノーノーはまだ流暢というまでにはいかないが、ゆっくりとした日本語で話してくれた。確かに前から聞いていた通り、この時期が気候的にミャンマーで最も過ごし易い時期なのだそうだ。

 

元々文通で知り合ったノーノーは手紙に添付されていた写真の通り富田靖子に少し似た色白の美人。出会いの発端はたまたま定期購読していたアジア関係のミニコミ誌にあったN先生の「W日本語学校」に関する広告。ここに通う生徒のレベルアップのため、彼等との日本語文通希望者を募集していた。僕はインドのスクリティとの文通等、アジアの人との文通はもともと好きだったので応募してみた所、紹介されたのがノーノーだったのだ。実は上海に駐在していた2000年の春節、僕は彼女を訪ねる計画を立て、ミャンマーのビザと航空券まで入手したことがある。しかし当時中国の春節休みは毎回政府発表に基づいて設定され、しかもこの頃、政府の発表は連休開始の直前であった。これを待っていてはチケットも売り切れてしまうため、やむなく見切り発車でチケットを買っていた所、その出発日が不運にも的を外し、最も多忙となる連休開始の前日となってしまったため、ミャンマー行きはあと一歩手前という所で断念。とりあえず苦肉の策として政府発表の連休に合わせて再度旅行計画を練り直し、行き先を急遽フィリピンに変更したのである。その後もノーノーとは文通を続けていたが、上海から帰任した2001年、彼女は結婚した。しかもその相手は何と、彼女を僕に紹介してくれたN先生その人だったのである。何はともあれ結婚してしまってはいろいろ忙しくなるし、なかなか訪ねて行くのは難しい。僕のミャンマーに対する関心もこれ以降少しずつ薄れていった。

 

ところがミャンマーとの縁が意外な所で蘇える。99年のモンゴル旅行の際にバックアップしてもらった、中央アジアの留学生との交流を図る団体。団体自身はミャンマーにはほとんど目を向けていないのだが、たまたまこの団体を通じて知り合ったアジア好きの友人M氏に誘われ、ある別の集まりに顔を出してみた。それはミャンマー人やミャンマー好きの日本人達の集うホームパーティー。そこでミャンマー関係のミニコミ誌編集者を筆頭に、ビルマ語教師やら、写真家やら、駐在経験者やら、ミャンマー人配偶者を持つ人やら、いろいろな「ビルキチ(ビルマキチガイと呼ばれる、ミャンマーにハマッてしまった人達)」の人々と出会った。会合には「ビルキチ」だけでなく僕と同じような旅行好きな人達も集い、以後毎回楽しませてもらっている。そこで出会う面々からミャンマーは絶対いい所、是非行きなさいと再三言われ、再び関心が沸き起こったのだった。しかも世の中狭いもの、会合の常連の中に、ノーノーやN先生を知っている人が何人かいたのである。ミャンマーまで行って二人の結婚式に出席した人までいた。実際N夫妻が帰国(&来日)した時も、このホームパーティーで対面することができたのだ。

 とりあえずこのような縁がいろいろ重なって、今日、僕はヤンゴンの地を踏むことと相成った。

 

 N一家三人の他にノーノーのお母さん、お兄さん、受験生のいとこに家政婦さん等がいる間取りの広い立派な家。お客の宿泊用の部屋さえ準備されている。ああ、疲れた!! 部屋に入るやいなやバタンキュウ。せっかくN夫妻に会えたというのにあれだけ苦労して担いで来た贈り物が渡せないもどかしさ。いつ荷物が手元に戻って来るのかわからない不安・・・。疲れはピークに達していた。

 「疲れたでしょう。シャワー、入りますか?」 

ノーノーが言う。いや、今日はもう寝るよ。僕はそう言ってすぐにベッドに横になることにした。もちろん明日の朝シャワーに入ればいいと思ったからだ。それに明日の昼はタンダちゃんと初顔合わせだ。明日きちんと洗ってスッキリしてから会う方がいい。しかしそれは日本の常識に過ぎなかった。「クックックックッ・・・」。壁に張り付いたヤモリがあざ笑うかのように奇声を上げていた。