第一回 「ガンダーラへの出発」 

     (パキスタン編)


Pakistan


パキスタン旅の期間:1989年8月12日~8月17日 6日間

訪問地:イスラマバード、スワート、タキシラ、ペシャワール、ラホール、カラチ

 

一日目:イスラマバード到着

二日目:スワート

三-四日目:タキシラとペシャワール

五日目:ラホール

六日目:カラチ


(本編はLing Muが当時17歳の頃に書いた手記をもとに若干の手直しをしたものです)



一日目:イスラマバード到着

 

  「どういう事だ! こっちは早起きして来たのに。これからまた新宿に戻って明日出直して来いって言うのか! 冗談じゃない!!」

ついに参加者の一人が怒り出した。ペコペコ謝る航空会社の係員。

 僕と父、そして父の友人Sさんは、8月11日から一週間、パキスタン旅行に参加した。午後2時30分にPIA(パキスタン航空)のPK-751便に乗る予定だったのだが、飛行機の遅れにより6時出発に突然変更してしまったのである。そして待合室で夜になるまで僕達三人と他のツアー参加者は座って待っていたのだが、添乗員二人は一向に現れず、イライラしている所で耳にしたのは、PK-751が欠航になったという係員の言葉だった。みんな怒るのは無理も無い。

 出国スタンプをすでに捺されていたにもかかわらず、PK-751に乗る予定だった人300名はバスで新宿に戻って、航空会社が手配した京王プラザホテルに泊まり、翌日再度出発することになった。カラチから北京を経由して成田へ向かう予定だった飛行機は、台風のため上海に不時着した関係で欠航になったそうだ。

 その夜、僕達はホテルのハワイアンショーでも見て海外旅行の気分だけ味わいながら夕食を摂り、明日の朝5時にモーニングコールが入るというので早く寝た。

 

 翌朝5時15分、結局モーニングコールは無く、あらかじめセットしておいた目覚ましで起きた。 空港に向かい、再び出国検査を通って飛行機に乗り、成田を立った。本来この機は北京を経由するはずだったが、直接イスラマバードへ向かうのだそうだ。

 機内では退屈なので、何度か眠ったり本を読んだりしていた。長い時間が経過し、窓の外を見ると、雪をかぶった山々が見えてきた。その直後流れてきた英語のアナウンスからは、「K2」や「ナンガパルバット」といった名山の名が聞こえてきた。だがこれだけある山々の中のどれが名山なのかはよく分からなかった。やがて機体は巨大な雲に包まれる。この雲がまた、はっきりした形になっていて、彫刻のようだった。

 

 飛行機に乗ってから10時間。やっとパキスタンの首都イスラマバードに到着した。空港にはクーラーの一つも無く、外へ出るとムシムシとした暑さだ。その暑い中を汗だくになって働く地元のポーター達。僕はトランクを運んでくれた子供のポーターにキャンディーをあげた。同行するツアーメンバーは総勢30名以上いるため、二台のマイクロバスを使って観光を行うそうだ。

 だがいつまで経ってもバスは発車しない。メンバーの一人が税関で登山用ナイフが見つかって引っかかっているため、僕達は待たされているのだそうだ。先日空港で係員に怒鳴りつけていたYさんがまたもや怒り出し、誰だ! 全員に迷惑かけてる奴は! とサングラスの奥の目で周りをギョロギョロと見回していた。その後一時間ほど待たされた後、その犯人氏が添乗員と一緒に現れた。彼は言い訳ばかりして周りのメンバーに謝ろうとせず、その態度は僕も含め周りはちょっと不快であった。先程エキサイトしていたYさんがこの時突然彼の所にツカツカと歩いて行き、いきなり襟をつかんだので、ちょっとまずい雰囲気になったが、添乗員が止めたので何とか大事にはならずに済んだ。確かにYさんの気持ちはわかるし、待たせた人も一言謝ってほしい。だがせっかく外国に着いたのだ。トラブルが続いてしまったが、以降は楽しい旅ができることを祈らずにいられなかった。

 今晩はイスラマバードで一泊するはずだっただが、一連のトラブルで予定が一日ずれたので、僕達はバスで更に北にあるスワートへと向かった。空港の前のモスクから、コーランの声がもの悲しげに響いていた。

 

 イスラマバードはとても新しい街で、人口は10万人と少ない。街並みはきれいに整っていて、道路と道路の間にはちゃんと緑のスペースが設けられている。1959年、首都がカラチから移転した。それ以前、ここはまだ街として出来上がっていなかった。イスラマバードのすぐ隣にラワルピンディという旧市街がある。こちらの人口は75万人。とても賑やかな雰囲気の所である。いずれはこの二都市が合併し、大首都となる予定だそうだ。

 イスラム系の各民族が集まってできた国、パキスタンはそれぞれ独自の言葉を持つ民族が住む五つの州から成り立っている。国民の共通語にはウルドゥー語が用いられていて、現在パキスタン国民は全員この言葉を話せるが、このウルドゥー語、元々インドのイスラム教徒が話す言葉で、実はパキスタンのどの民族の母国語でもない。それぞれの州を紹介すると、まず一番人口が多いパンジャブ族の住むパンジャブ州。州都はラホール。アフガニスタンに隣接し、同国と同じパシュトゥン族の住む北西辺境州。州都はペシャワール。カラチを中心とし、シンド族の住むシンド州。フンザ地方で有名な、カシミール族の住むカシミール州。そして面積の上では一番広い、バルチ族の住むバルチスタン州といった具合である。全ての民族の平等を考えて、ウルドゥー語が国語になったのである。現在はこれら民族に加え、インドとの戦争後にこちらに移住してきたムハジールと呼ばれるイスラム教徒のインド人もカラチを中心に多く住んでいる。

 加えてパキスタンという国名について話そう。英語で書くとPAKISTANと綴るが、Pはパンジャブ州、Aは北西辺境州の通称アフガン州、Kはカシミール州、Iは首都のイスラマバード、Sはシンド州のそれぞれの頭文字、それにバルチスタン州のTANを組み合わせて作られている。もちろんでたらめに並べているわけではなく、ウルドゥー語で「清純な国」という意味があるそうだ。

 ちなみに、パキスタン人は一般に三ヶ国語を話す必要がある。州の現地語、ウルドゥー語そして英語である。イスラマバードには私立のエリート校があり、そこでは普段英語を使って授業をするのだそうだ。

 

 イスラマバードを後にした僕達のバスはアジアハイウェイを走っている。スワートに着くまでまだ時間があるが、窓を見ていると退屈しない。地元の人達を見ていても結構面白いものである。町で見かける人の大部分は男性で、女性はあまり見当たらない。時々いるのだが、皆布をすっぽり頭にかぶり、顔を隠している。しかしよく見ると、全身全てを隠している人、目だけ出して他は隠している人、髪だけ隠している人等様々である。

 立ち並ぶ家々の壁には解読不能のウルドゥー語で何か書いてある。一見落書きのようだが、それにしては見事な字体で書かれている。これはポスターや看板の代わりだという。更に遠くを見れば、所々に放浪民族ジプシーのテントが点々と並ぶ。ヨーロッパ等に分散しているジプシーの本家はインドとパキスタンである。

 パキスタンの車道は日本と同じ左側通行で、車のハンドルは右に付いている。僕の見た所、この国で走っている車の大多数が日本車である。又、パキスタン独特の面白い車もある。「トラック野郎」を思わせるほど派手な装飾で飾られたバスやトラックである。このバスは普段はある一定の場所に停車していて、乗客が満員になるまでは出発しない。だからすれ違うバスは全て人でいっぱいである。バスによっては屋根の上まで人が乗っていることもある。パキスタン人は華やかな模様が大好きで、派手な車ほど乗客が多く乗るという。安全性は無論二の次である。

 この国には信号がほとんど無く、車は絶えずクラクションを鳴らしながら猛スピードで突っ走るのでとても危ない。そもそもドライバーは、前方に障害物がある程度ではブレーキなどかけやしないというのだから驚きだ。にもかかわらず、車と車の間をすり抜けるように走る自転車や、車道を堂々と歩く人々がよく目につく。

 他によく見かけた車としてタクシーがある。タクシーと言ってもその種類は様々で、パキスタン人の言うタクシーは、黄色と黒のボディーの車である。他に日本製のスズキ軽トラックを改造したキャバレートラックや、トンガと呼ばれる幌馬車(ナンバープレートも付いている!)、そしてオート三輪のリキシャ等がいわゆる庶民タクシーである。特にリキシャはパキスタン中どこへ行っても走っている。

 辺りが段々暗くなってきた。右も左も林で、樹木以外何も見当たらなくなる。かと思うと突然バザールの真ん中に入ってしまったり、本当に見ていて飽きない所である。蛍光灯に色をつけただけのネオンがとても印象的だったバザールを抜けると、再び林に入る。真っ暗な木々の中に、白いターバンと白い服を身に付けた男が一人、青白く光る一本のガス灯にボウーッと照らされながら立っている。ここで肝試しをしたらさぞかし迫力があることだろう。

 

 そして夜11時、僕達のバスはスワートの中心部サイドシャリフにあるスワートセレナ・ホテルに到着した。着後すぐに食事を摂り、部屋に案内された。ボーイが冷房をかけてくれるし、風呂はちゃんと湯が出るし、チップを払うのは少し面倒だけど、ソ連のホテルに比べれば快適だった。