第十三回 「カフカスの異文化圏を行く」
          
(アルメニア・カルムイク編)

Armenia

Kalmykia


アルメニア旅の期間:2004年9月16日~9月21日 5日間

訪問地:エレバン、ゴリス、ステパナケルト、シュシ

 

カルムイク旅の期間:2004年9月22日~9月25日 3日間

訪問地:エリスタ

 

 



やっとのことで憧れの地へ

 

軽快な島唄が響く店内。ゴーヤチャンプルーをつまみながら、遥か遠い未知の国に思いを寄せる者が数人そこにいた。関係者の顔合わせ・打合せを兼ねた探検隊結団式と意気込んだはいいが、手探りで渡航を模索している僕達の前に次から次へと壁が立ちはだかり、酔いに任せた表向きのハイテンションとは裏腹に、これからどうしたらいいのか、運を天に任せるしか無いのか、と思い悩むのであった。

 

 探検隊の行く先は憧れの地、カフカス(コーカサス)。中でも特に魅力を感じている国、アルメニア。更にもう一箇所、中央アジア関係のNPOで出会った I さんを通して知ったこれまた未知の国カルムイク。僕自身もカフカスの北にある仏教の国ということぐらいしか知らない。しかし同国を何度か訪れた経験のある彼から話を聞くうちに、アルメニアと合わせてこの国もぜひ訪ねてみたいという思いで一杯になった。現地事情に詳しい人が一緒ならきっとスムーズに回れるだろう。ということで、これまた知人である彼の奥さんの了承を得て、今回の旅の水先案内人としてI さんをお借りすることに成功した。 

 とは言えこれらの国々は旧ソ連。今もなお、旅行するには諸手続が世界一面倒な地域だ。アルメニアは空港でビザが取得できるそうなのであまり心配無いが、カルムイクはロシア連邦内にある一共和国。と、なるとロシアビザを取得しなければならないのだが、このビザが一筋縄にはいかず、大使館へパスポートを持って行けば取れるというものではない。現地のホテルを予約し、航空券を事前に確保しなくてはビザが下りない制度なのだ。問題はその航空券。日本からカフカスへはモスクワを経由するのが一番簡単な方法であるが、このモスクワ・東京間の帰りのフライトが満席でどうしても取れない。このままキャンセル待ちを続けるか、職場に無理を言って休暇を延ばしてもらい、帰国予定日の翌日のフライトで帰るか、究極の選択を迫られた。航空券も、ビザも、そして休暇調整も思い通りにコトが進まない中、更に追い討ちをかけるように発生したのは、この旅に同行するはずだったI さんのドタキャンであった。就職が決まったことによるもので仕方無かったが、カルムイクのエキスパートを失ったのは大きな痛手であった。 

 しかし旅の神様はまだ僕を見捨ててはおらず、この一件の直後に筋金入りの旅人が今回新たなパートナーとして立候補してくれた。93年に天津で出会い、共に船で韓国へ渡った大阪の園田さん。天津で出会った時も彼は東南アジアからインド方面を一周した帰りであったが、旧ソ連の旅経験も実は豊富で、その旅テクニックは正に僕も学ぶことが多い人である。強力な仲間を迎え、残る障壁は渡航手続だけである。今回同行できなくなったI さんもカルムイク現地の知人の紹介や、その他情報提供の面で引き続きバックアップしてくれることになった。 

 とても大阪にいるとは思えない沖縄ムード一色の民謡酒場。今回結団式の幹事を買って出てくれた知人の大阪女性がノリのいい島唄を歌い手にリクエストすると、フロアにいる沖縄系とおぼしき客達が一斉に立ち上がり、ヤンヤヤンヤと踊り出す。まだどうなるのかわからないけど、とりあえずこの仲間達で力を合わせれば、道は開けるかも知れない。三線とカチャーシーのリズムをBGMに僕はIさん、そして園田さんと杯を酌み交わす。何だか根拠も無く希望が湧いてきた大正での一夜だった。 

 では次回は成田で会いましょう、ということで、とりあえず東京へと戻り、この難関の突破口を全力で探す僕であった。

 

 旧ソ連方面に強い旅行社と何度も状況を確認し、ありとあらゆるルートを調べた。I さんのコネにも頼ってこの地域に詳しい人々から貪欲に情報を収集した。出発十日前になっても帰りのフライトの席が空く気配は無かったので、日程調整すなわち休暇を延長すべく、時にはやや険悪ムードになりながらも職場と折衝を行った。又、I さんの人脈と園田さんの旅テクに乗っかるだけではダメだと思い、何とか語学面でお役に立とうと、かなり気合を入れて、都内の某カルチャーセンターでアルメニア語の勉強を始めた。そして最後は手相占いにもすがった。ここまでやって、もし行くことができなかったら、それはそれで僕を危険から引き離すための見えない力が働いたのだと潔く諦めよう、と思うまでに至った。 

 

 やがてやって来た9月16日。僕は念願叶って成田空港にいた。16年ぶりに乗るアエロフロート航空のチェックインカウンター付近を見回す。すると巨大なバックパックを背中に一個、お腹にも一個ぶら下げた一際目立つ男が一人いた。いやはや、つわものだなぁ~、と思ったら、彼こそ正しく今回の相棒となる園田さんであった。これまたカフカスへ行く準備の一環なのか、口元からあごにかけて黒々とヒゲを生やしてきており、気合十分のご様子。とりあえずスタート地点に着くまでの長き消耗戦に何とか勝利し、ここ成田で無事再会できたことを喜び合った我々、とにかく早く彼の地を踏みたいという熱い気持ちから、足早に搭乗口を目指すのだった。 

 12時15分、モスクワ行きの便は定刻通り離陸。東京発だというのに日本人の乗務員が一人もいないどころか、日本語の機内放送すら全く無いアエロフロート。快適なフライトだという話はあまり耳にしたことの無い航空会社だが、座席幅も広くなったし、以前よりもずっと良くなったと素直に感心する僕達二人であった。トランジットとは言え、ヨーロッパ方面まで飛ぶフライトは初めてであったが、何せ園田さんとは93年以来後無沙汰だったので、諸々の思い出話を始め、今まで行った国々での体験談、これから向かうカフカスへの思い、そして現地での具体的なプラン等々話していたら、10時間なんてあっという間であった。 

 かくして機体はモスクワ・シェレメチェボ空港の第二ターミナルに到着した。実は本日最初の関門はここなのである。航空券を手配した旅行社によると、ここからアルメニアの首都エレバンへ飛ぶ際には第一ターミナルに移動する必要があるという。しかしシェレメチェボの第一、第二ターミナルというのは成田のそれとは概念が異なり、敢えて言うなら羽田と成田ぐらい離れた、全く別の空港なのである。一応シャトルバスが出ており、1時間ちょっとかかるらしい。そのためトランジットとは言うものの、この時一旦ロシアに入国しなくてはならない。 

 日本人が多数を占める乗客達が乗り継ぎの窓口に向かって流れて行く。その窓口には長蛇の列がいくつもできており、そこで流れは止まった。人混みの中でしばらく呆然としていると、やがて女の係員がロシア訛りの強い英語で、「トランジット トゥ ルォォマー!」と大きな声で叫んだ。するとローマへ行くと思われる日本人の一団が人混みを押し分けて前に出て行き、入国審査を受け始めた。係員は続けて「キエェーフ!」とか、「アムステルダァァム!」といった具合に次々と経由先の名を叫び続ける。ここから先、前に進める人は列の順番なんて関係無く、行き先の都市名が彼女の口から出てくるかどうか次第になってしまっていた。しかし彼女の叫ぶ都市名、一体どういう順番なんだろう。ムンバイ行きはいつになったら呼ばれるんだろうねぇ。前に並んでいたフランス人のおっさんはそう言って笑う。まぁ、エレバンは一応元ソ連だったし、少なくともインドのムンバイよりは早いだろうな、と思っていたが、いつまで経っても呼ばれる気配は無く、そうこうしているうちにこのフランス人にも先を越されてしまった。 

 かくしてあれだけ沢山いた乗り継ぎ客も大分少なくなってきた。大声で都市名を張り上げていた係員もすっかり静かになってしまった。もしかしたらあの係員が叫んでたのは、出発時間間近のフライトだけだったのでは? そう思った僕達、足元の荷物を担いで入国カウンターに行った。すると至ってすんなりとパスポートにスタンプを捺され、エレバン行きはこのまま第二ターミナルね、と言われた。なんだ、こんなに長く待ってなくても、勝手にカウンターに行けば普通に通れたのかもなぁ、なんて思ったが、そんなことはどうでもいい。僕達の意識は今審査官が放った重大発言に釘付けであった。エレバン行きは第一ターミナルからの出発じゃなかったの? さっきの審査官、第二と言ったよな。第一か第二かは大変な違い。もし間違えたら飛行機には絶対乗れない。僕達は早速戸惑った。入国ゲートをくぐってから係員らしき人間も見当たらず、誰に聞くこともできない。フライト予定の電光表示を見るが、エレバン行きは今晩11時20分発でまだまだずっと後なので、表示には出てこない。いや、もし第一からの出発だとすれば、初めからこちらに表示されるわけ無いよな? ああ、一体どっちを信じればいいんだ? 

 「出発2時間ぐらい前になったらもう一度電光表示を見るか、どこかで係員を探して聞きましょう。2時間前なら、仮に第一からの出発でも何とか間に合うかも。」

園田さんは言った。確かにそうするより他無いのだが、やはり不安である。やむなく僕達は近くのソファに座り、黙ってひたすら待つことにした。 

 

  その時、奇跡は起こった。

 今この状況下では正に奇跡としか言いようが無い。たまたま僕達の隣に座っていたグループの話し声が何となく耳に入ってきたのである。もちろん何を言ってるのかは全然わからない。しかし、彼等の話している言葉がアルメニア語であることに僕の耳が反応したのだった。都内でアルメニア語をかじらなければ絶対気付くことは無く、このまま悩み続けていたことだろう。 

 「ハイエス(アルメニア人ですか)?」 

思わず僕は隣に座る年配の女性に片言のアルメニア語で声をかけた。彼女は「ハー(はい)」と大きく頷いた。この一団は30代とおぼしき夫婦と子供、そしてその両親というグループで、やはり僕達と同じフライトでエレバンへ飛ぶとのことだった。 

 「エレバン行きの便はここからの出発ですか?」 

 「そうだよ。ここからだから安心しなさい。」 

夫婦の旦那の方が英語で言った。彼等は実はアルメニア系アメリカ人で、親戚を尋ねて幾度もこの路線を利用しているとのこと。信用して間違い無いだろう。やれやれ一安心! 肩の荷が落ちた僕と園田さん、すっかりこの家族と和気藹々なムードでおしゃべりと洒落込んだ。他にもう一組のアルメニア系紳士のグループも話に混じってきて、備え付けのテレビでプーチン大統領と会談している人物を指差し、あれがアルメニア大統領ロベルト・コチャリャンだ、と説明してくれた。こちらのグループはイスラエル在住のアルメニア系の皆さん。こうした人達が正に離散民(ディアスポラ)の国アルメニアを克明に語っている。言われてみればアメリカのテニス選手アガシ、文豪ウィリアム・サロイヤン、フランスのシャンソン歌手シャルル・アズナブル、かつてのソ連の副首相ミコヤン、作曲家ハチャトリアン、映画監督パラジャーノフ、ロッキード事件に登場したコーチャン等々、世界中を見渡せば、有名人に結構アルメニア系はいるものなのだ。かつてオスマン・トルコ帝国が自国領内のアルメニア系住民を敵国ロシアの手先と見なして激しい弾圧と虐殺を行ったことが、大量の離散民を生み出した直接の原因となっており、この問題は今もなおトルコとの間で決着が着いていない。一方で各国に散らばった離散民は逆にアルメニアにとって大きな武器となった。ソ連から独立してまだ日も浅く、経済的に独り立ちできていない故国のために、異国で富を築いた彼等が積極的に帰国して開発事業に着手したり、経済支援に勤しんだりしているようだ。  

 

 そんなわけで僕達は離散民の皆さんの後にくっついて行くことで無事エレバン行きの飛行機に乗ることができた。エレバンまでは約4時間。とは言え成田から10時間のフライトでモスクワまで来て、それから空港で待っている間一睡もしていなかったので、離陸して間も無く僕は意識を失ってしまった。さすがは旧ソ連圏の飛行機。どういう時間配分をしているのか知らないが、本来なら電灯を暗くして眠るべき時間だというのに、食事のトレイを積んだカートが行き来する音が鳴り止まない。ただでさえ狭い座席だったが、更に輪をかけて身動きの取れない違和感を感じ、眠い目をこすって起き上がると、僕の目の前にはガッツリ本格的な夕食のトレイが置かれていた。こんな時間に食事も何も無いもんだ。時計を見ると12時半を過ぎていた。トレイにはご親切にグラスワインまで・・・。いや、これは誰かが注文しなきゃ普通置かないだろう。・・・ってことは? 

 「どうしたんですかぁ、Ling Muさん。眠そうな顔しないで下さいよぉ~。」 

隣では何と、園田さんがすっかり出来上がった顔でグラスワインを飲み干していた。反対側の隣に座るアルメニア人とおぼしき男とカタコトのロシア語で何やらおしゃべりしている。酒を飲むと目がギンギンに覚めるんだ、と妙にテンションが高くなっている。僕は目の前の食事は全然食べる気にもならなかったし、とにかく眠りたかったので、グラスワインはそのまま園田さんにプレゼントし、再び眠ることにした。

  次に目を覚ましたのは、機体が滑走路らしき地面に軽くバウンドした頃だった。この時、機内から割れんばかりの拍手が起こった。おお、やはり旧ソ連の飛行機。特に国内線は到着すると拍手が起きることが多い。生まれて初めて乗った国際線がアエロフロートだったので、当時僕は飛行機が目的地に到着する時は、予備校の授業が終わる時と同じように拍手をするのが常識なのだと思い込んでいた。中国留学以降、それが常識ではないことに気付いたのだが、ここはまだあの日のコアな世界が生きている数少なき地域なのだろう。ま、もしかしたら故国に到着した離散民達の格別の想いが、たまたま拍手という形で表現されただけなのかも知れないが。 

 

 到着すると一堂早速ビザの申請。書類一枚に必要事項を記入し、21日間のビザをスムーズに取得できた。モスクワの空港で会ったあのアルメニア系家族もアメリカ国籍なので、一緒にビザを申請していた。イミグレーションでは、やはり離散民以外の外国人が珍しいのか、クールな様子で入国者の列を整理していた女性係員も、僕と園田さんがパスポートチェックする時だけさりげなく持ち場から離れ、我々の真隣でスタンプが捺されるまでの一連の様子をじーっと眺めていた。

 アルメニアの通貨「ドラム」への交換もスムーズに終え、先程のアルメニア系アメリカ人家族に別れを告げると、僕達は一旦空港の外に出た。外はほとんど真っ暗闇であったが、客待ちしているタクシー運転手が何人か近寄ってきた。どの男もいやに人相が悪い。 

 「空港の建物に戻りましょうか。あそこにカフェがあるし。」 

園田さんが空港出口とつながっている一軒のカフェを見つけたので、僕達はそのままUターン。未知の国で真夜中に移動するのはリスクが大きい。実はここまでの道中、園田さんとは「空港野宿」のプランを練っていたのだ。で、当初はこのカフェで明日の朝まで過ごそうかとも思ったのだが、店内のある出入口の向こうに階段があり、その階段が空港の出発ロビーにつながっていることに気付いた。この時間なら出発ロビーの方が静かだし、ゆっくり眠れるのではないか、空港野宿経験豊富な園田さんの読みが働き、僕達は早速その薄暗い階段を昇ることにした。 

 読みは見事的中。エレバン・ズバルトノツ国際空港はまだ建設が完全には終わっていないのか、最も屋根に近い最上階のフロアは一面何も無く、誰もいないスペースであった。かと言って真っ暗ではなく、ほどよい明るさの照明はある。ここならどこでも大の字になって眠れるなぁ! 僕達はワクワクしながら、今晩の寝床を物色した。もちろん途中どこかから係員が出てこないかと少し不安もあったが、幸い他の人間に出くわすことは無かった。念のため通路からは見えにくい場所を選び、バスタオルを床に敷くと、ボストンバッグを枕に図々しく眠ることにした。

 しかしこの「空港野宿」、僕は初めての体験だったせいか、うまく寝付けない。それもそのはず、バスタオルを敷いているとは言え下はコンクリートの床だ。冷たくてしょうがない。日本ならホームレスが寝る時だってダンボールを敷いてる分これほど冷たくはあるまい、なんて思いながら、なるべく床と接触する面積を少なくすべく体を横にして無理に眠るのだった。  

 

 翌朝6時半。セットしておいた目覚ましが鳴る前に目が覚めた。テキパキと身支度を済ませた僕と園田さんは早速空港の建物の外へ。市内まではバスが走っているはずだ。バスの標識を探していると、こんな早い時間にもかかわらず、タクシーの客引きがまたしても言い寄ってきた。市内まで10ドルだと言ってきたが、バスさえ見つかればそんな出費は不要。やがてバス乗り場を誘導する看板を見つけたので、この運転手を相手にせず、さっさと歩き出した。今日、バスは無いんだぞ、料金は5ドルでいいぞ、などと言って運転手はしつこくついて来るが無視。やがて5分程歩いた先にちゃんとバスが停まっているのが見えた。ウソだってことがバレても運転手はしばらく僕達の後をついて来たが、やがて諦めて消えていった。

 「ハンラペトゥチャン、グヌメ(共和国、行きますか)?」

エレバンの中心である共和国広場に行こうと思い、バスの入口から運転手に聞いた。共和国広場を意味する「ハンラペトゥチャン・ハラパラック」というアルメニア語は覚えてきたつもりだったが、いざ使う時に限って度忘れしてしまい、先のような変な言葉になってしまった。しかし運転手には意思が伝わったようで、乗りなさいと笑顔で言われ、早速乗車。そんな我々に続いて次々と乗客が乗り込んできた。何とそのほとんどはこれから学校に行くと思われる子供達。どの子も黒髪とパッチリした目が人形のように可愛らしく、緊張感がやや緩み始めた所で、バスはいよいよ市内に向けて出発した。

  窓の向こうから朝日と共に僕達を迎えてくれたのは、白い雪をかぶった大小二つの山、アララト。ノアの箱舟が漂着したという伝説の山であり、アルメニア人の心の拠り所とされる霊峰である。しかし現在これらの山は国境の向こう、トルコ領内にある。ということは、この国の首都ってこんなにもトルコの近くに位置してるってわけか。やがて街中に入ると、再度アララトのお出迎え。と言っても、このアララトは山ではなくコニャックの工場。アルメニアが世界に誇る名酒「アララト」ブランドである。

 

 車内の乗客はいつの間にか通学の子供達に代わって大人ばかりになっており、次第に混み合ってきた。そろそろ中心部に着いたんじゃないか、と思った僕達は、この国では珍しいイラン風のイスラム寺院のある所でバスを降りることにした。実は園田さん、以前隣国のグルジアへ行った際に、経由のためここエレバンで一泊だけしたことがあったのだ。その時に宿泊したナイリ・ホテルがなかなかいい所だったらしい。モスクの近くで降りたのは、この辺が確かナイリ・ホテルから遠くはないという彼の当時の記憶からであった。ともあれ、僕達はそのホテルまで歩いて行ってみることにした。 

 今僕達が歩いている通りはかつてレーニン通りと呼ばれたメインストリート。今はマシュトツ通りいう名前に変わっている。あの難解なアルメニア文字を創作したという聖職者メスローブ・マシュトツの名前から取っている。やがてこの通りと垂直に接する交差点から100メートル程先に大きな丘が見えた。園田さんによると目指すホテルはその丘の上にあり、ホテルまではロープウェーで昇って行くのだという。で、大きな荷物を担ぎながら僕達はひたすら歩いてその丘のふもとを目指したのだが、やっとこさたどり着いたロープウェー乗り場というのが、これまた人っ子一人いなかった。ひょっとしてシーズンオフか何かでストップしているのだろうか。まさか徒歩で丘の上まで約20分かけて昇るのはさすがに厳しいよナ、と思った僕達、無難に共和国広場近辺のホテルを探すことにした。

 弧を描くような形でどっしりと佇む赤い石が積まれた大きなアーチの建物を中心に広がっている共和国広場。この古い建物の中には高級ホテルや中央郵便局等が入っている。建物真ん中のアーチをくぐった向こうにエレブニ・ホテルという中級クラスのホテルがあり、僕達は早速そこにチェックインすることにした。 

 フロントの女の子は黒ブチ眼鏡に濃いアイシャドウを塗りたくっていたが、すっぴんであればきっと可愛い子に間違い無い容姿であった。一見あまり表情を作らずすました様子でいるが、時々手続の手順をトチったりして、照れ隠しに笑う所は親しみが持てた。大きな分銅の付いた鍵を持ってエレベーターを上がると、各フロアにはジェジュールナヤと呼ばれる鍵番のおばさん。おお、正にソ連のホテル。 

 さてさて、とりあえず部屋に落ち着いた。さぁ、これからアルメニアの旅の始まりだ。実は僕達、この国で計画していることが二つあった。一つはエレバンの「日本センター」にコンタクトすることである。ここは僕が東京で受講していたアルメニア語講座の先生に紹介してもらった。日本語を学ぶアルメニア人もよく訪れるらしいので、可能であればこうした学生達と知り合いになって、一緒にこの国を散策したり、話を聞いてみたいと思ったのだ。で、早速先生からもらった電話番号にプッシュしてみた。しかし電話はコールされているようだが、誰も出る気配は無い。今日は休みなのだろうか。とりあえず時間を置いてまたトライしてみることにした。

 そしてもう一つの計画。それは元々隣国アゼルバイジャンの領土であったが、90年代の民族紛争でアルメニアが武力占領している地域、ナゴルノ・カラバフ自治州へ行くことである。あまり情報は無いが、噂によるとこの地域に「ナゴルノ・カラバフ共和国」なる国家が独立しているらしく、一体それはどんな所だろう、はたして本当に国なのだろうか、と興味が沸いたのだ。この「共和国」を承認しているのは現在アルメニアのみ。実はここエレバンにその「共和国」の通商代表部があり、彼の地へ行くならこの代表部で事前にビザを取得しないとならない。こうした諸手続は旅を始める前に済ませておいた方がいいということで、僕達は早速この「共和国」代表部を探しに出発することにした。

 

   ホテルを出て、エレバンの街を歩く。並木道と石畳の道路に、赤い石を積んで建てられた建築。何となく落ち着いたヨーロッパのような雰囲気の街である。ここカフカスという地域は、正に欧亜の境という表現がしっくりきており、大まかに分けると、カスピ海に面した東部に行くほどアジアに、黒海に面した西部に行くほどヨーロッパに近い雰囲気を持つ。アルメニアはその中間に位置しているが、とりわけアルメニア人の文化的基盤はカフカスと言うよりむしろ中東なのでアジア寄りと考えている。実際街を歩いているアルメニア人の容姿はイランやアラブの人達によく似ている。しかしこの街の雰囲気は意外にもヨーロッパ寄りである。黒海に面した、もっとヨーロッパ的であろうグルジアに行って来た園田さんの話によると、あちらの首都トビリシの方がまだアジア的な雑踏が見られたという。他にも意外な点を挙げると、世界最古のキリスト教国を自認している割には、街中にはほとんど教会が見当たらず、宗教色が薄い感じがしたこと。又、想像していたような独裁的色彩が無いこと。この国は独立以来強硬な民族主義右派が政権を握っており、アゼルバイジャン領内に攻め込んで、その領土を自国に編入してしまうほど、イケイケドンドンの路線を突き進んでいる。しかしコチャリャン大統領の肖像画など、どこにも見かけなかった。園田さんは他の旧ソ連諸国でイヤと言う程体験してきた、悪名高い警官によるゆすりまがいの職務質問をかなり恐れていたようで、警官らしき人間の前を通る時はやや緊張気味であったが、この国で特に警察に呼び止められるということは皆無であった。これという資源も無く、貧しい国と言われるが、モラルは高いような気がする。

 噂通りだったのは、やはり女性が美人であること。と言うか、美人しかいない。歩きながら思わず行過ぎる美女達に見とれてしまい、五回も道を間違えてしまったほどだ。以前明石家さんまが司会を務めるテレビ番組で、この国が本当に美人の国なのか確かめに行くというレポートをやっていたが、そこで取り上げられた女性はもちろんのこと、不本意にカメラに写った通りすがりの女性さえもモデル級の美人であった。さすが欧亜の境と言われる地域だけあって、見事に混じっているものだ。色は白く、くっきりとした目鼻立ち。黒い目に黒い髪。スタイルもいい。中東の女性も美人なのだと思うが、イスラム圏ゆえ髪の毛や顔を隠してしまっていることが多い。この国の女性達を見て、中東の女性がベールをかぶらなければきっとこんな感じなのかな、と思った。しかし残念なのは今流行しているのか、髪の毛を金髪に染めている女性が少なくないこと。そんな女性に限って髪の付け根や眉毛は黒いままなので、きっと地毛は黒いのだろう。僕は黒いままの方がステキだと思うのだけどな。